晴佐久神父@浅草2016.5.26入門講座

「福音の村」に上がっていた説教で、晴佐久神父の入門講座がいよいよ始まったと知りました。基本的に、浅草教会で火曜午前と木曜夜、上野教会で火曜夜と木曜午前に開かれるそうです。1週間に4回ペースですが、4回ともだいたい同じような話をされるそうです。

さっそく浅草教会へお邪魔することにしました。夕暮れの駅を降りると、おいしそうな食べ物屋さんの誘惑を振り切って教会へ急ぎます。着いてみると、講座の会場は、教会のお堂の入り口わきにある小部屋でした。参加者は、神父と入門係さんも入れて15名ほど。部屋のまんなかに置かれた中華料理店風の円卓を、みんなでぐるっと囲んで座っていました。回を重ねるうちに、人数が増えてこの部屋では収まりきらなくなるかもな、と思いました。

 

さて始めましょうというところで、神父はメガネを置いてきてしまったといって席を立ち、戻ってくると「私はもの忘れが激しく、ものをどこに置いたかなどすぐ忘れてしまうんです。とくにメガネ。メガネを探すだけのために、1日の3%くらい時間を費やしあていますよ」と話し始めました。浅草教会の初めてのミサでも、「よく忘れる」と言っておられましたが、子どもの頃からそういう特性があるのだそうです。目の前のことに集中して、他のことは忘れ果ててしまう。軽いADHD傾向とおっしゃっていました。治療が必要なほどではないけれど、普通と明らかに違うと。

現在59歳の神父が(10歳はお若く見えますが)子どもだった頃は、社会全体にまだそうした方面への理解がなかったので、大人もどうしたらいいかわからず、ただ困った子ということで「それは、もう、よく 怒られた」そうです。「かわいそうでしたよ」と、ご自分でけろりと言っておられました。

晴佐久少年は大人たちから繰り返しこっぴどく怒られながら、「むだだよ」と心のなかで思っていました。彼は、どうしても自分のこの性質が変わらないことを正確に知っていました。それだけではなく、その「ありのままの自分」を神が愛してくれていることを知っていたのです。世の中の「こうでなきゃいけない、ああでなくちゃ」という基準から、まるでズレていても、そういうことと関係なく神は私を愛しているというのですね。

 

神父はひとしきり語ると「なんと皆さん、ここまでの話は、今日のマクラです」とイタズラっぽく笑ってから(真剣に聴き入っていたみんなは、こんな充実した話がマクラとはびっくりです)、この日の本題「幸せ(しあわせ)と、幸い(さいわい)」に入りました。
学問的な話ではないのですが、「幸せ」は条件に左右される相対的なもの、「幸い」は神からくる絶対的なもの。そう考えると、お金がなくて病気で不幸せ、でも幸いということがある、というお話でした。病気でずっと寝ていながら「私は息しているだけで幸せ(さいわい)です」と、神父に語った方がいらっしゃるそうです。神父はこの言葉にいたく感動なさっていたので、日曜の説教でも取り上げられるように思います。あとで福音の村を読みましょう。

 

印象に残ったところでは、「3つの願い」という昔話が神父は大好きだそうです。妖精だか魔法使いだかを助けた貧しい老夫婦が、「お礼に3つだけ、なんでも願いをかなえてあげる」と言われます。おじいさんが思わず「おいしいソーセージが食べたいなあ」とつぶやくと、見事なソーセージがどんと現れます。するとおばあさんは怒ってののしりました。「なんでも願いをかなえてくれるというのに、どうしてソーセージなんてくだらないものを。こんなソーセージ、あんたの鼻先にぶら下がってしまえばいい」。すると、その通りになりました。おじいさんはびっくりして、「なんとかしてくれ、私の鼻にくっ付いたこのソーセージを取ってくれ」。これが、3つめの願いとなり終了です(おじいさんとおばあさんは逆だったかもしれません)。


神父がなぜこの話を大好きかというと「人間の願いなんてそんなもんだから」というのです。人間の願いの愚かしさをよく表していると。そして、神の願いこそほんとうに「よい」。私たちは、自分の願いにこだわるのではなく、神の願いを信頼して生きればいい。なぜなら、神は「よい」お方で、あなたを愛しているから。

子どもがあれ食べたいこれが欲しいと言っても、お母さんは「もうすぐ晩ごはんでしょ」など言って、たいがいその場でかなえてはくれない。でも、もっとよいもの、健康にいい食事を用意してくれる。神もそうです。私たちは子ども。神はお母さん。私たちが考える以上に神は深く考えておられ、私たちを幸いで包んでくださる。

 

神父はそういった話のあと、次の点を付け加えることも忘れませんでした。
でも中には、お母さんが子どもを深く傷つけて、子どもがずっと苦しむということも現実にある。そういうお母さんの場合、子どもは自分のエゴを満たすための存在であって、子どものことをほんとうに考えていない。私はそういう人たち(子どもたち)にいつもこう言っている。あなたのお母さんはそういう人だったとしても、あなたという人を産んで、ここまで育ててくれたことには多少感謝してもいいかもしれない。しかし、「あなたのほんとうの親は別にいる」と。神があなたのほんとうの親、神は熱い思いをもってあなたをこの世に産み出し、愛し、ずっと見守って、やがてみもとに引き取り迎えてくれるのだと。


いわゆる毒親を「養い親」とみなし、神を「実親」とする発想が、神父の熱弁ゆえか新鮮に感じられてたいへん心に残りました。